東京赤坂「鮨 奈可村」 sushi nakamura akasaka tokyo

About店主紹介

店主・中村征夫は、1963年(昭和38年)、18才で鮨職人の道を歩き始めました。
持ち前の行動力と探求心で、日々料理の世界を追求し続ける中村をご紹介いたします。

1 9 6 3

修業時代日本万国博覧会開会に合せて竣工された帝国ホテルへ

1963年、故郷の北海道から上京した18歳の中村は、横浜の鮨店で修業を始めます。

はじめは「同僚に負けたくない」という気持ちから修業に精を出しますが、料理の世界を知るにつれ、純粋にその奥深さにのめり込むようになっていきました。

1970年に竣工した、帝国ホテル東京・新本館のオープンとともに、当ホテル内の鮨店「なか田」へ移った中村は、寿司職人として、また黒服の営業マンとして、忙しくも充実した青春時代を過ごします。

日本経済が右肩上がりに成長したこの時代、日本を代表する高級ホテルには、各界のトップや著名人が数多く訪れ、時代を彩る錚々たる面々と直に接しながら、中村は料理人として、また人として、知識や幅を広げていきました。

中村征夫、鮨職人としてのスタート

1 9 7 3

単身ドイツへ海外で鮨を握る

時の首相は田中角栄、オイルショックがまきおこり、為替レートが1ドル=308円の固定相場制から変動相場制に移行した1973年。

時代の流れを肌で感じながら、もっと広い世界に目を向けるようになった中村は、単身ドイツへと渡ります。

今のように気軽に海外旅行に行く人はまだまだ極少数、ましてや海外で料理人として働くなど殆ど前例がない中、デュッセルドルフ日本館の鮨職人として、異国の地で試行錯誤の日々が始まります。

ヨーロッパならではの伝統や美意識、食文化のなかに身を置きながら、日本食文化の象徴ともいえる鮨を極めるおもしろさに、当初3年で帰国するつもりが、6年の年月を過ごすことになりました。

中村征夫、海外で鮨職人として働く

1 9 7 9

奈可村のはじまり自主独立 ― 塩と酢橘で食べる鮨

ドイツから帰国した中村は、1979年の秋、赤坂七丁目に「奈可村」をオープンします。

長期の海外生活で感じた日本人としての意識の高まりとともに、日本人の味覚の繊細さ、日本の食文化の素晴らしさを再認識した中村は、以前にも増して日本の食・鮨の世界を貪欲に追求し始めます。

魚、米、塩、水、山葵…すべての素材にこだわって仕入れをし、これらの魅力を最大限に引き出す仕込みに手間を惜しまず、いちばん美味しい状態でお客様に召し上がっていただくために模索と努力を繰り返しました。

今でこそ多くの店で見かけるようになった「塩と酢橘で食べる鮨」を最初に始めるなど、独自のスタイルを確立させた中村のもとには、連日多くのお客様が訪れ、本や雑誌にも数多く紹介されました。

中村征夫、赤坂7丁目に「鮨 奈可村」をオープン

2 0 2 0

奈可村のいまさらに美味い鮨を求めて

還暦を過ぎた中村に癌が見つかり、赤坂七丁目の「奈可村」は、2009年末、丸三十年の営業に終止符を打ちます。

闘病生活と休養期間を経て、無事に癌を克服した中村は、馴染みのお客様の「もう一度、奈可村の鮨が食べたい」の言葉に一念発起し、2011年12月、赤坂五丁目に現在の「奈可村」をオープンし、今に至っています。

毎日の市場通いはもちろん、素材の生産者を訪ねて対話をするなど、鮨への熱い想いは止まるところを知らず、以前にも増して精力的に活動しています。

中村征夫と赤坂5丁目の「鮨 奈可村」

まず、美味い鮨を作るのは料理人としての大前提、その上で食事という時間をお客様と共有し、快適に過ごしていただくには、サービスを超えた誠意の心が大切 ― これは、奈可村の「おもてなし」に対する信念であり、サービスをする側・される側という関係以前に、人として、真心を込めてきちんと相手に向き合いたいという中村征夫という人間の軸でもあります。

強い信念と、鮨への情熱、齢とともに広がり続ける知識・見聞で、奈可村流おもてなしを追求する日々はこれからも続きます。

ご予約はこちらから